エッセイ(7/8)
父の自宅療養
父を退院させてからそろそろ1ヶ月になろうとしている。主治医に余命は1ヶ月と言われたが、今のところ食欲もあって好きな物を少しずつではあるけれど食べている。
CTの写真を見ると胃の中は癌でほとんどふさがっているのに不思議でならない。妹は隣りの患者と間違っているのではないかなどと言っているが、具合が悪そうな様子をみるとあの写真はやはり父のものに違いない。
今は義妹が介護をしてくれているが、実に手厚い介護で頭が下がる。食事も工夫していろいろ作ってくれるので父も喜んでいるようだ。
私はすぐ近くに住んでいるけれど、息子たちと孫の世話でなかなか手伝うことが出来ず心苦しく思っている。夜はフリーになる日があるので私も父の世話ができる。
昼間もすきをみては様子を見に行き、清拭やトイレの介添えなど手伝ったりもするけれど、ずうっと付き添っている義妹の苦労はたいへんなものだ。感謝の気持ちでいっぱいになる。
来週は妹の夫が来てくれることになっている。この義弟も実に良く面倒をみてくれる。お料理も得意なので、母も喜んでいる。
義妹も義弟も何から何まで世話をしてくれるので、私は鬼の娘に変身して、父が自分でできることはなるべくさせてくださいとお願いをした。
母にも仕事を与えてくださいとお願いをした。母は薬の係りにさせてもらったと言って張り切っている。水薬の分量を計ったり、錠剤や粉薬を数えたり揃えたり。毎食後だからけっこう神経を使うらしい。
酷なようだが、そのほうが母も張り合いがあるだろう。父もまだ自分でトイレに行ける、自分でご飯が食べられる、薬も飲めると思うと少しは元気も出るのではないだろうか。生きようとする意欲も湧くのではないだろうか。
父の終の日まで、私は鬼の娘になっていようと思う。
しかし、だるそうな父の様子を見ていると鬼の娘の心は複雑だ。
父よ、辛くて辛くてならない日がきたら、麻薬を使いましょうね。そうならないことを私は願っているのだけれど・・・。
2002年06月25日(火) 00時00分
義兄逝去
花の季を待たず逝きたる義兄なれど眺めてゐむかこの満開を
三月二十八日の朝、夫の姉の連れ合いが亡くなった。心筋梗塞で長いこと入院していて元気に退院したので安心していた。ところがその後も入退院を繰り返していたなんて夫も私も知らないでいた。
しかし今回は症状が重かったらしく、すぐ上の義姉から連絡があった。あわてて夫が駆けつけると、「ああ、ゆうちゃんが来てくれたかい」と嬉しそうにしていたという。孫たちのひとりひとりにも優しい言葉をかけて励ましたそうだ。義兄は自分の死が近いことを予感していたのだろうか。
義兄は戦後長いことシベリアに抑留され、厳寒の地で筆舌に尽くせないような苦労をしてきた人である。
スキーが得意な山男でもあった。私が夫と結婚する前、キャンプに連れていってくれた。その時私の妹も同行し、テントでの泊まりが楽しかったことを思い出す。
浅間連山のひとつ高峰でのキャンプであった。アサマフウロ、コバイケイソウ、ヤナギランなどが咲いていたっけ。そしてクマザサを掻き分けながら黒斑まで登ったことも思い出す。
三月三十日に義兄の葬儀がとりおこなわれた。僧侶の和す読経を聞きながら、人間の命のはかなさを思っていた。人間誰もが迎える死と直面した時、私は心平らかにいられるのだろうか。
終の日を迎える時、私も義兄のように穏やかに、にこやかに近親の者たちに別れを告げることが出来るのだろうか。
死ぬのが恐いなどと泣きわめくことだけはしたくないが、私のことだから何とも言えない。願わくば昏睡状態のままひっそりと旅立ちたいものだ。不謹慎にもそんなことを考えながら僧侶の読経を聞いていたのである。
義兄は享年八十六歳。義姉や二人の娘たちとその家族に囲まれて幸せな人生だったのではと想像して安堵の思いでいっぱいになった。
お義兄さん ありがとう。安らかにお眠りください。合掌。
2002年04月16日(火) 00時00分
節分の思い出
そういえば昔、長野市に住んでいた頃は善光寺の豆まきによく出掛けたものだ。
ある時、小学二年生の長男と三歳の次男を連れて雪の中を出掛けたことがある。子供たちはキャラメルやガム、えびせん、そして小さなおもちゃなどがお目当てで嬉々としていた。
当時も有名人を迎えての豆まきが盛んだった。善光寺には関根恵子(高橋恵子)が来るというので、私は豆を拾うよりそちらが楽しみであった。
車を少し離れた駐車場に置き、二人の息子を連れて善光寺の本殿に向かって歩きはじめた。その時、あたりがざわざわするのでふと見ると何と関根恵子が大勢に取り巻かれながら歩いて行く。
長男が「お母さん、あの人きれいだね」と言ったかと思うと、あっという間に人ごみをかきわけちょこちょこと関根恵子の隣りを歩いている。私は慌てて次男の手をひいて、人ごみをかきわけ長男のもとに走って行った。
でもミイラ取りがミイラで、関根恵子のあまりの美しさに見とれながら、私もいつの間にか隣りを歩いていた。
似た者親子で、はたから見ていたらきっと可笑しかったに違いない。
関根恵子は和服姿であった。たしか緑色の地に花柄の振袖を着ていたように記憶している。帯はどんなだったか定かではないが、とにかくこの世の人ではないような美しさであった。
私はファンというより、まるで崇拝者のように、本殿までの参道をうっとりと眺めながら歩いたことを思い出す。
やがて時間になり豆まきが始まった。関根恵子は優雅な風情で豆まきをしていた。息子たちはきゃっきゃっ言いながら飛んでくる豆やキャラメルを拾っている。
と、突然三歳の息子が何か叫んでいる。そばに行くと後ろにいたおばさんにキャラメルをとられたとべそをかいている。
なにっ!このォっ!とばかりにそのおばさんを私が睨むと、「落ちていたんだよ」と抜けぬけという。すると三歳の息子が「違う、ちがう、手からとったぁ」私は「こんな小さい子から盗るなっ!」と言いながら、おばさんの手からキャラメルを取り戻した。こうなれば関根恵子どころではない。私は二人の息子をしっかりガードしながら、飛んでくる品々を拾ったのである。
それにしても母は強しである。後で考えたら笑ってしまうような出来事だが、私は必死だったと当時をなつかしく思い出す。
雪は小止みになった。さて、頑張って雪かきをしよう。
2002年02月03日(日) 00時00分