佐久の風花・メモリアル

オリジナル短歌&エッセイ&気まぐれ日記

エッセイ(8/8)

初孫

初孫が生まれてそろそろ二ヶ月になろうとしている。最近はあやすと笑うので、それが嬉しくて何回でもあやしたりするので息子に怒られてしまった。

なるほど・・夜うなされるようなことがあったらたいへんだ。

孫の美音(みお)が生まれたのは9月27日の昼過ぎであった。

前の日の朝、嫁がどうも破水したらしいと言うので、慌てて病院へ連れて行った。病院の玄関から産科の外来までかなりの距離なので車椅子で行ったら、助産婦さんが「さあ、それでは病棟へまいりましょう」と先にたってすたすた歩きはじめた。

私は慌てて「あのう、歩いていくんですか」と聞くと、こともなげに「はい、そうですよ」・・・私は仰天してしまったが、今は昔のように破水したからと大騒ぎしないのだそうだ。

今は衛生管理が行き届いているから大丈夫らしい。

初産は時間がかかるからきっと夜になるかもしれないと思っていたらなんと次の日のお昼過ぎにようやく生まれた。

ちょっと難産で、途中何回か帝王切開になるかもしれないと言われ、嫁は朝から何も食べさせてもらえず、結局、朝、昼、夕、朝、昼と五食食べずじまい。これでは力が入らないはずだ。

それでも自然分娩だったので後が楽で本当に良かった。

私も実家のお母さんと一緒に陣痛室であちこちさすったりしながら、自分のひどい難産のことを思った。

女はこうして頑張ってお産をするのだから、強い母になれるのかもしれないなと思ったりした。

出産の知らせを受けて、さっそく息子とかけつけた。

息子が動くと取材クルーもなぜか動くので困ってしまうが、病院の許可をもらったとかで同行した。

生まれて一時間たったばかりの分娩室に、息子、実家のお母さん、夫、私、そしてカメラマン、音声さん、ディレクターの七人が入って、赤ちゃんを一斉に注目。

ところが当の赤ちゃん、なんとカメラ目線をしたのでびっくりした。見えてるわけではないと思うが、さすがシンガーソングライターの娘だと皆でわいわいがやがや。何とも騒々しい一行だったが、助産婦さんも負けていない。ポロライドカメラで赤ちゃんやら、我々やらをぱちぱち撮って披露宴会場さながらの賑やかさ。

人が生まれることって、何て華やかなことだろうと妙な感動を覚えた。「こんな可愛い孫を生んでくれてありがとう、ごくろうさま」と嫁をねぎらい分娩室を後にした。

障害を持ち、呼吸器を装着の息子にこんなかわいい娘が生まれてどんなに嬉しいことかと息子の横顔を見ながら胸が熱くなった。

そして何事もあきらめてはならないという強い信念の息子を誇らしく思い、私も強く生きようと心に誓った。

2001年11月22日(木) 00時00分

ひげ男

こんなことがあった。

それは父が怪我をして入院していた時のことである。病室は五階なので私はいつもエレベーターを利用していた。

ある日、例によって母を迎えに病院へ行った。汗をかきかきエレベーターの前まで行くと、強面のお兄さんが半ズボンをちょっとずり下がった感じにはいて、五分刈りの頭をぼそぼそ掻きむしっているのに出会った。

「この人エレベーターに乗るのかしら、いやだなあ」と思った瞬間、短時間でぱっぱっぱっと品定めをしてしまった。

よく見ると不精髭で日に焼けた筋骨たくましいおっかなさ。

私は一瞬「乗るのよそうかな」と迷った。しかし、父の着替えなど入った大きな紙袋を持っていたので、引き返すわけにもいかずエレベーターの前に恐る恐る並んだ。誰か他の人も来るかもしれないときょろきょろしたが、結局ひげ男と同乗するはめになってしまった。

心臓がどきんどきんと高鳴るので、なるべく目を合わさないようにして俯いていた。しばらくするとエレベーターが降りてきて、ドアがさぁっと開いた。私はひげ男の後から乗ろうとした。すると強面からは想像もつかない優しい声で「どうぞ」とひとこと。ええっと思って顔をあげると、かのひげ男がにこにこしているではないか。「あ、ありがとうございます」私はひきつった声でお礼を言って乗り込んだ。

「何階ですか」
「五、五階です」
「ああそうですか。僕も五階です。お身内の方が入院ですか」
「あっ、はい、父が」
「それはたいへんですね」

一言ふたこと話しているうちに五階についた。降りぎわにひげ男が言った。「お父さんお大事に」

私は何のねぎらいの言葉もいえずじまいであった。

人は外見で判断してはならないというけれど、今回のひげ男との遭遇は猛烈なパンチをもらった感じだ。ちよっと見ただけで人を判断するのは大きな間違いだということを思い知らされた。

ひげ男さん、ごめんなさい。そしてありがとう。

2001年08月31日(金) 00時00分

ご機嫌斜め・・・

よせばいいのに、この十月で米寿の父がトラクターを持ちだして大怪我をしてしまった。

何しろ大型特殊の免許まで持っている父なので、こんなちっぽけなトラクターなんぞと馬鹿にして持ち出したらしい。

自分の齢も忘れてぇと私はぶつぶつ言いながら応急手当てをした。

ところが病院で診てもらったら、ばい菌が入っていると言う。そのまま入院になってしまった。

それからがたいへん。母を連れて毎日病室通い。「忙しいから来なくていいよ」と言うから一日おいたら、「こんな年寄りの病人をよく放っておけるもんだ」とご機嫌斜めの父。

「こんな忙しい娘に何を言うか」と母は母でご機嫌斜め。

「ふたりで仲良くけんかしてればぁ」と私もご機嫌ななめ。

かくして十日が過ぎて退院の運びとなってほっとした。

予後も順調で十日ほど過ぎたある日、あろうことかまた怪我をしてしまった。こんどは何だと駆けつけると、レントゲン検診車の階段を踏み外したというのだ。

レントゲン検診車の知らせがあった時、病院で撮れとあれ程言ったのになんでそんなところへ行ったのかと私はまたもご機嫌斜めになってしまった。

母に聞くと、協議委員がせっかく通知を持って来てくれたから行かないと悪いと思ったと言う。まったく律儀な父である。

もっともそういうところが父の良いところなのかもしれない。

またまた病院へ行くとさすがの先生もあきれていた。

Cなんとかの数値が高いから入院をと先生。

冗談じゃない、また入院なんてと思ったが、先生にやんわりと「私が充分に面倒を見ますから今回は自宅でいかがなものでしょうか」とお伺いをたてると、「ああそれでもいいですよ」

しめた!と内心思ったが、にこやかに「ありがとうございます」

病院から帰って「こんど怪我したら面倒見ないよ」と言ったら「ああ、朝から晩まで寝てるよ」と父。

入院してたほうが楽だったのにと母はご機嫌斜め。

この両親にこの娘・・・夫があきれはてていた。

2001年08月09日(木) 00時00分

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著者

ルナ(土屋浩子)

昭和16年生まれ。長野県佐久市在住。昭和48年3月、「短歌新潮」入会、丸山忠治先生に師事。昭和60年12月、第一歌集「風花」を出版。平成19年6月、第二歌集「水辺の秋」を出版。平成20年11月没。

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