佐久の風花・メモリアル

オリジナル短歌&エッセイ&気まぐれ日記

エッセイ(6/8)

島根県松江市へ

9月13.14.15日の3日間、島根県の松江市にでかけた。

島根県といえば出雲大社と宍道湖と小泉八雲ぐらいの知識しか無い私だったが、ホテルが宍道湖のほとりと聞いて心が動いた。

そもそもの発端は、松江市の病院で療養中のKさんから長男あてにメールが届いたことからはじまる。

要約すると{筋ジストロフィー協会では毎年秋に全国各地方持ち回りで研修会を開いている。今回は中国地方本部が幹事となり、全国から患者,家族、医療関係者の方々を呼ぶことになった。

今回のテーマは「夢を語ろう」この「夢」という言葉は絵空事やロマンではなく、どんな時代が来ようと筋ジス患者もしっかりと生きていけるビジョンを持とうという意味である。

このテーマに相応しい方ということで、同じ病気でありながらさまざまな苦労を乗り越え活躍されているあなたの名前が真っ先にあがった。ぜひ我々の願いを叶えてほしい・・・}

このメールを読んで研修会のテーマとその心意気に息子は感銘を受けたようだ。

しかし、あまりに遠距離なので呼吸器を装着している息子にとっては不可能かもしれないと、一時は断念したようだ。断念したが、主催は筋ジス協会だから受け入れ態勢は万全ではないだろうかと希望は持てた。そうなると吾が息子、こんな機会はめったにないからと講演を引き受けてしまった。

こうなったら主治医の先生と看護婦さんにも同行をお願いしようと、訪問日にお願いしたところ快く承諾をいただけた。

そしたら息子の妻が「それなら家中で行きましょうよ」と、とんでもないことを言い出した。

息子も「主治医や看護婦付きの旅行なんてめったにないことだから家中で行こう」と当然のような顔をして言う。

それはそうだけれど次男も行くとなると、やれバッテリーだ、やれ吸引器だ、充電器だ、なんだかんだと二人分準備しなければならない。それに二匹の犬もどこかに預けなければならない。

それに近所に住む母が三日も独りぼっちになってしまう。

あれやこれやが頭の中を行ったり来たりしてしばらく無言の私。

夫は「せっかくの機会だから」と言うし、次男は「行ってもいいよ」とあっけらかんと言う。わが家族の前向きさと言うか物見高さと言うか決断の早さには感心したりあきれたり。

息子が言った次の言葉で私の心も決まった。

「物品両面のバリアフリーの不備に一石を投じ、障害者の旅行についての社会通念の打破に貢献できればと思う」

かくて家中での松江行きが決定した。

行くと決めたその日から、長男夫婦はあれこれ計画を立てはじめた。そしてまず最初にしたことは、呼吸器装着でも新幹線に乗れるか否か、飛行機に搭乗できるか否かのこの二つであった。

呼吸器の業者にも協力をしてもらいながら、長男の妻が交渉をすることになった。彼女が最初電話をかけたところ、JRが難色を示したとのこと。新幹線も呼吸器もコンピューター制御だから、誤作動してどちらかがとまってしまってはたいへんだということらしい。冗談じゃないよ、電源をくれと言ってないのに誤作動なんてするかとむしょうに腹がたった。それが2月のことである。

そしてすったもんだのあげく長男の妻の粘りに軍配があがってなんと半年後の8月に乗車許可が貰えた。

一石どころか二石も三石も投じての結果だ。未開国でもあるまいにどんな石頭が揃っているのだろうとまた腹がたった。

なにはともあれ新幹線には乗れることになった。次は飛行機だ。

飛行機の方は「バッテリーが問題だからこちらの指定のものを」などと、これまたおかしなことを言い出した。それでも割合早く、「そちらでお使いのものでも結構です」と搭乗の許可が下りた。どっちがお客だか解っていないようだ。

まあなにはともあれ旅行に行かれる目安がついてほっとした。

行程は家から佐久平駅までリフト車→佐久平駅から東京駅まで新幹線→東京駅から羽田空港まで福祉タクシー(リフト車)→羽田空港から鳥取県の米子空港まで飛行機→米子空港から松江のホテルまで迎えのリフト車で。帰りも同様の行程であった。

今回は呼吸器の業者フジ・アールシーに全面的協力をいただいた。東京駅や羽田空港など要所ごとに人員を配備して呼吸器の管理をしてくださるとのことで一安心。

一番心配な独りぼっちになる母は、さいたま市に住む妹夫婦がこちらに来て世話をしてくれることになってほっとする。

ついでに犬のめんどうも見てくれるというので有難くお願いをした。「散歩もさせるからね」と楽しそうに言ってくれたので有難くお願いをした。これで万全。安心して眠りについた。

   9月12日 (金)

今日は旅行の持ち物などの最終チェックをした。とりあえず当日使うもの以外は宅配便でホテルに送ることにした。呼吸器の予備バッテリー、呼吸器のスタンド、加温加湿器、消毒用具、気切孔用ガーゼ、蒸留水、スピーキングバルブ、ガムテープ、タオル類、ティッシュペーパー、再生用テープ、音源CD、衣装類、呼吸器の回路一式・・・

此れを二人分だから、段ボール箱で 5個。送られたホテルも驚くだろうなと思いながら荷作りを終えた。

それを隣りのコンビニから送った。そのあと今度は当日持参の荷物のチェックをした。

外部バッテリー、外部バッテリー充電器、吸引器、吸引器の充電器、呼吸器ACアダプター、2芯変換ソケット、アンビュー、人工鼻、注射器、予備回路、予備呼気弁、酸素飽和度計、尿器、携帯電話、ビデオカメラ、カメラ、孫の用品、お金、印鑑など。

呼吸器関係はこれまた二人分だから、相当な荷物だ。

キャスター付きのかばん2個、リュック2個、肩掛けバック1個につめてそれぞれの担当者が持つことになった。

その荷物を持ちながら呼吸器、バッテリー搭載の息子たちの車椅子を押すのだから相当の力がいる。

当日は、長男、長男の妻、孫、夫,次男、私、そしてお医者さんと看護師さんの計8名。

用意は万端ととのった。今日は早めに寝ようと思いながらなぜか私だけがばたばたと1時まで起きていた。平素の夜更かしが災いして寝てもまた起き出してあれやこれやして、また寝てまた起きてなんてしていて夫に「いいかげんにしろ!」と怒られてしまった。

   9月13日(金)

いよいよ当日。出掛ける日なのに曇っていて今にも雨が降りそうだ。前日ネットの友達のまゆさんからメールをいただき、米子は雨降りとのこと。晴れ男の長男に期待してさあ、出発。

とは言うものの心配になってカッパなど用意した。

今日は米子空港でまゆさんと双子のお子さんと、やはりネットのともだちのひろみさんが待っていてくださるので、お天気なんてどうでもいいよとばかりにるんるん気分の私。

佐久平駅まではリフト車でピストン輸送。我が家のリフト車は車椅子が一台しか乗れないのでまず長男一家からでかけた。

それから犬を二匹部屋の中に置いたまま、次男と私と看護婦さんと運転の夫。妹夫婦が早く来てくれるといいな。

息子たちは新幹線は初めての乗車である。新幹線は車椅子用の座席がグリーン車にひとつ、自由車の指定席にひとつしかない。だから当然、新婚旅行をかねた長男一家だけがグリーン車で、次男とわれわれは自由車の指定席だった。

今回テレビ局が2社密着取材で同行した。彼らはもちろん長男一家の乗るグリーン車。なんて贅沢な!

東京駅に着いたのは11時16分。そこから福祉タクシーで羽田に向かった。福祉タクシーの運転手さんは慣れた手つきで車椅子を押し、呼吸器の電源もさっさと車のコンセントにつなぎさすがと感心した。

羽田空港では予約した中華飯店で昼食をとった。こういう交渉ごとはすべて長男の妻がやってくれた。今回の旅行隊長でもある。

今回の旅行で最高のネックだったのが飛行機の搭乗であった。何しろ通路が思いの外狭く、空港側で用意の車椅子に乗り換えなければならなかった。乗り換えたらなんと車輪をとると言う。

それだけかと思ったらひじ掛けも外すと言う。これにはまいった。なぜって息子たちは自力で座っていられないので、腕をささえなければならない。足も誰かが支えなければ倒れてしまう。

呼吸器を持つ人、バッテリーを持つ人、車輪の無い車椅子を押す人など5人の手がいった。座席に移してからもう一度同じ事を繰り返さなければならなかったから、もうたいへんな騒ぎ。

国内を飛ぶ飛行機は通路をこんなに狭くしなければ採算がとれないのかと情けなくなった。

息子二人が座席に座ったところで一般の乗客が乗りこんできた。外で待たされてやきもきしていたに違いない。申し訳ないことをしてしまった。しかも20分遅れ。しかし、これは航空会社の対応の悪さが原因だ。

早くから待っていたわれわれを速やかに飛行機に乗せるべきである。そして座席を一番奥にすれば、かりにまごまごしていても他の乗客に迷惑はかからなかったと思うのだ。

それからもう一つ。米子空港に車輪を下ろした瞬間、雨でスリップしたらしく、どすんどすんとバウンドした。その瞬間なんと長男の呼吸器がすっとんで座席の下に落ちてしまった。

主治医のN先生があわてて持ち上げて、呼吸器は無事だった。

その時のみんなのショックはたいへんなものだ。思わずシートベルトをはずしスチュワーデスのお姉さんにたしなめられてしまった。このぉっ!へたくそ操縦士め!

呼吸器も座席一人分の料金とっておいて何だよ、もう!

帰りは呼吸器を座席にがんじがらめにしばりつけた。

いろいろあったが何とか米子空港に降り立つことができて良かった。空港ではまゆさんと双子のお子さんとひろみさんがにこやかに出迎えてくださった。ネットの掲示板でお会いしている通りのチャーミングな方であった。それまでかりかりしていた気持ちがふっと和んで嬉しい出会いであった。

米子空港からは、筋ジス協会のボランティアの方が養護学校のマイクロバスで松江市のホテルまで送ってくださった。

リフトのついた大型の車だったのでわれわれ8人とテレビ局の取材クルーも全員乗ることができた。

小雨の中を1時間余揺られ午後6時半ごろ宍道湖のほとりの「ホテル一畑」に着いた。9時間以上の長旅であったが、みな元気に到着できてほっとした。

ホテルではすでに親睦会が始まっていたが、講演者の一行ということで席は一番前に用意されていた。

席に落ち着いて辺りを見回すと、ほとんどの筋ジス患者は車椅子を使用し、人工呼吸器装着の人も何人かいた。家族同伴らしくどのテーブルも明るい笑顔でいっぱいだった。

悲壮感など少しも感じられない。自分達と同じような人達がこんなにも大勢いるということが私を勇気づけ、そして励まされた。

親睦会のお料理はどれも軟らかく食べやすく工夫されていて、筋ジス協会とホテルの温かい配慮が伝わり感激した。息子たちは珍しいお料理や美味しいお魚に舌鼓を打ちながら嬉しそうであった。私もたくさんいただいた。

親睦会も佳境にはいり、歌や踊りも次から次へと披露され、ご当地の安来節はまことに賑やかに楽しく思わず見とれてしまった。

やがて宴も果ててそれぞれの部屋に引き上げた。

われわれもそれぞれの部屋におさまり、荷物の整理をしたり明日の予定を確認したりして眠りについた。

   9月14日

朝食はバイキングだった。メニューが盛りだくさんで何を食べてよいやら目移りがしてしまった。結局いつも通りの和食に落ち着いて、今日の予定など話しながら食事をすませた。

息子の講演は10時15分から。時間的に余裕があるからと私はリラックスしていたが、あとで聞くと息子は講演の原稿を忘れてしまい、段取りが全部アドリブだったという。これにはびっくりしてしまった。

しかし、息子は普段の講演時と同じように落ち着いてしゃべっていたので、原稿無しとは気がつかなかった。我が子ながら度胸がすわっていると感心してしまった。

聴衆のみなさんは頷いたり笑ったり、涙をこぼしたりしながら熱心に聴いてくださったので感謝の思いでいっぱいになった。

講演が終わったあと、筋ジス協会の理事長さんから素晴らしかったとお褒めの言葉をいただき、息子も安堵の胸をなでおろしたに違いない。

筋ジス協会の理事長さんは女性で立派な方であった。弁護士を目指して頑張っていた娘さんを何年か前に亡くしたと、淡々と話されたが内心はどんなに悲しく辛いだろうかと胸が痛くなった。

介護の後遺症で股関節を痛めて杖をつかれていた。

われわれ筋ジスの子どもを持つ親の気持ちを深く理解し、娘さんを亡くされたあとも理事長を務めてくださりこんな有難いことはない。

講演会のあと昼食をすませて、息子夫婦は孫と宍道湖のほとりを散歩。

昨日と打って変わって快晴の行楽日和となりほっとする。

しばらくして日本交通の福祉タクシーが迎えにきてくれた。かなり大型で二台の車椅子と一行の全員が乗車でき有難かった。

いよいよ市内観光に出発。まず最初に見学したのは小泉八雲記念館だった。

記念館はこじんまりと落ち着いた雰囲気であった。展示品は八雲の初版本、直筆原稿や書簡,写真などのほか、八雲愛用の机や椅子、スーツケース、ボストンバック、帽子なども大切に置かれてあった。

中でも私の目をひいたのが、八雲夫人セツさんの英単語覚え書き帳だった。日常的なこまごまとした道具の名前もあり、セツ夫人の努力がしのばれた。

時間があまりとれなかったので一応一回りして八雲記念館をあとにした。

記念館の隣りは八雲の旧宅。八雲は庭のある武家屋敷に住みたいと願い、明治24年5月から11月までセツ夫人と暮らした家だと説明書きにあった。車椅子では無理なので表から眺めるだけにして、次の目的地松江城に向かった。

松江城への道は簡素な武家屋敷が並らび、黒松が屋根付きの板塀からのぞく風情は日本情緒そのもの。武士たちは身じまいを整えここから毎朝登城したのかと、狭い歩道を歩きながら往時に思いを馳せた。

息子の車椅子を押して石畳の歩道を歩いて行くと突然、急勾配になったり道路側に傾いたりしていて難儀した。もっと広げればいいのにと思ったが、広げると武家屋敷のイメージが崩れるのかもしれない。

松江城までの道のりの長かったこと・・私は途中でギブアップしそうだった。長男の妻は赤ん坊をおぶって車椅子を押していたのでさぞかし疲れたことと思うが、何か語り合いながら楽しげであった。

途中から右手にお堀が見えてきて、緑がかった水を満々と湛えていた。よくみるとそのお堀の水が流れていることに気がついた。そうか、だから堀川と言うのだ。

その堀川を屋根付きの小舟が、観光客を乗せて行き来する。目の先を行く小舟のお客がこちらを見て手を振っている。

橋の上からそのお客ににこやかに手を振りながら、旅は人を開放的にするのだなとおかしかった。

松江城は木々の上に威風堂々と聳え風格があった。ここも車椅子は無理ということで下から眺め、記念撮影をして帰路についた。

ホテルに戻り、かねてから招待されていた食事会に出掛けた。お医者さん3人がわれわれを招待してくださった。付き添いの主治医のN先生や看護師のKさんとも親しく挨拶をかわし、和気あいあいとした食事会で楽しかった。お料理も最高においしかった。

その時に話した、一人の小児科医との会話が今でも私の脳裏に残っている。

「私は障害者の親が嫌いだ」
「どうしてですか」
「診察のとき本人に聞いているのに親がべらべらしゃべるし、医者が親切にするのを当たり前と思っている。」
「私はそんなことありませんよ」
「そんな親ちょっと変っているよ、普通は親がしゃしゃり出て困ったもんだよ。子どもをないがしろにするのもたいがいにしろつうんだよ。」

仰せの通りと言いながら「先生、さあどうぞ」とお酌をした。

熱血漢のその小児科医を思い出しながら、お医者さんがみんなこんなふうだと子どもは救われると頼もしく思った。

呼吸器のバッテリーがそろそろタイムリミットだからと、丁重にお礼を述べてホテルの自室に戻った。

楽しいことはあっという間に過ぎ去る。

明日はいよいよ佐久へ帰らなければならない。またあの9時間の旅につくのだ。

やれやれ。そんなことを言いながら、呼吸器を部屋のコンセントにつなぎ、外部バッテリーと吸引機の充電をすべくセットして、明日の持ち物や、宅配便の手配などした。

看護婦さんは息子たちのベッドに座布団を入れて即席のギャッジベットを作ってくれた。

さすがである。これで息子たちも安眠できると私も安心して眠りについた。

しばらくしてピッピッピッーという呼吸器のけたたましい警告音が鳴り響き、私は仰天して飛び起きた。見ると廊下の灯りは点いているのに部屋は真っ暗。なんとなんと停電したのである。呼吸器は内蔵バッテリーが約1時間持つので安心なのだが、明日に備えて充電中の外部バッテリーがまた1からやり直しかと慌ててしまった。

人工呼吸器や電動車椅子、吸引機のバッテリー充電が各部屋で行われたせいかと長男の妻がフロントに電話をしたら、電気会社のミスとかでホテル側も憤慨していたようだ。しかしこちらは充電が出来ないと明日の長旅が出来ないので憤慨どころの騒ぎではないと無性に腹がたった。が、心配した停電も短時間に終り胸をなでおろした。

何だか疲れがいっぺんに出て節々が痛くなってしまった。

9月15日

松江から米子空港までは二人の方が2台のリフト車で送ってくださった。海無し県のわれわれのために海岸沿いの道をとコースを選んでくださったようで、楽しいドライブになった。

米子空港からの便は来る時より大きい飛行機で、通路が二つあり座席も後ろだったので他のお客さんに迷惑がかからずに乗り込めてよかった。出発も定時で安心した。

車椅子は相変わらず機内専用のものだったので、乗り降りはたいへんだったが、二度めなのでまあまあに移動できた。

羽田空港が見えた時は、何だか嬉しくてこれでもうすぐ帰れるとまだ空の上だったが妙な安心感が湧いた。やはり島根は遠いなが実感。

空港に着陸した時はほっとしたが、タラップを降りなければならないと分かり、一難去ってまた一難でうんざりしてしまった。

しかし、同行のカメラマンの方や音声さんの協力も得て5人がかりで、そろそろとタラップを降りた。長男が降りたあと次男も同じようにして降ろしていただいた。

羽田空港はなぜかものすごく寒かったが、大勢の方の協力のもとに実現でき得た旅行だったと私の胸の中はほのぼのと温かかった。

息子達も家族も今回の旅行をずいぶん前から楽しみにしていた。>楽しい思い出を胸に無事に帰宅できたことが何よりうれしい。それもこれも大勢の方々の協力あってのこと、心から感謝をいたします。皆さまどうもありがとうございました。

2002年11月04日(月)、2003年02月11日(火) 00時00分

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著者

ルナ(土屋浩子)

昭和16年生まれ。長野県佐久市在住。昭和48年3月、「短歌新潮」入会、丸山忠治先生に師事。昭和60年12月、第一歌集「風花」を出版。平成19年6月、第二歌集「水辺の秋」を出版。平成20年11月没。

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