佐久の風花・メモリアル

オリジナル短歌&エッセイ&気まぐれ日記

エッセイ(4/8)

至福の時

九月七日、長男に待望の第二子が生まれて、もう三ヶ月になる。

べビーバスはとうに卒業して今では、普通のお風呂で入浴させている。ちょっとおでぶちゃんの男の子で、頭を洗う時など左手で支えなければならないので体力がいる。身体を洗う時は膝に乗せて洗うので、石鹸をつけるとつるつるすべって何回かすべり落としそうになる。そうすると楽しそうに笑うので、私もけらけら笑ってしまう。入浴時間は十五分くらいか。でも私は汗びっしょり。

バスタオルを差し出す母親に赤ちゃんを渡して、湯船にゆっくり手足をのばす時の開放感・・・これこそが至福の時間なのだとしみじみと幸せをかみしめる。

上の女の子は三歳になる。最近おしゃべりになって大人と対等に話ができるので驚いてしまう。言葉もいろいろ覚え、その場の状況も把握できるのでうっかりしたことも言えない。危ないことなどして私が叱ると「もうおばあちゃんなんて遊んであげないよ」なんて言ったりする。そうかと思えば犬のルナが部屋の引き戸を開けて入ってくると「ルナちゃん開けっ放しはいけないよ。ね、おばあちゃん。でもね、犬だからしかたないよね」なんて言ったりもする。

先日は朝、父親がブザーを鳴らしたら「お母さん、お父さんが呼んでるよ。痰じゃない?」と言ったとか。もうそんなことも言えてと私はうるうるしてしまった。明るくておしゃまでやさしくて女の子っていいなとつくづく思う。

下の男の子もきっと父親の支えになってくれることだろう。

二人の孫が成人式を迎える頃まで長生きしたいものだ。

2004年12月20日(月) 00時00分

クラス会(中佐都会)

平成15年中佐都会 11月8日〜9日 於神奈川県三浦海岸

今年の中佐都会(私の母校は中佐都中学校)の幹事は東京方面の人が当番で、KさんとAさんの二人であった。たまには海の見える場所ということで、幹事は三浦海岸を選んでくれた。

長野県には海が無いので、長野県人は誰もかれもが海が大好きである。水平線からの日の出が素晴らしいと聞く三浦海岸。

こんなめったにない計画だからぜひ参加したいと思って、それとなく家族に話したら、骨休めにぜひ行ってくればいいとすすめてくれた。ヤッター!バンザーイ!

早速、出席のはがきを出した。ところが佐久からの参加者が私とMさんの二人だけという。ええっ?こんな素敵な計画に何でと不思議に思ったら、やれ結婚式だ、法事だ、娘の出産だ、の他に脱穀だの神経痛だの、いろいろあって不参加が多かったとか。

しばらくして幹事のKさんから、東京駅で友人たち四人と待っているから、長野新幹線から降りたらそこで待っているようにと連絡があった。佐久から上京の二人を案内するところがあるとかで、私もMさんも楽しみにしていた。

当日は佐久平駅9時58分発で東京駅11時16分着の新幹線で行くことにした。

佐久平発〜東京駅着のつもりが・・

11月8日の朝、小海町から車で佐久平駅まで行くからとMさんが、私を迎えに来てくれた。私は膝が痛いので大助かり。

佐久平駅から何かわくわくしながら長野新幹線に乗り込んだ。

東京駅ではKさんの他に誰が待っていてくれるのかしらなどとMさんと話ながら乗っていると何時の間にか上野駅に着いた。

この次よね東京駅は、と、話しているところへ車掌が割り込んできた。「この列車は上野止まりですよ。」「ええっ、冗談でしょ、東京駅に11時16分に着くって聞いてきましたよ」
「この列車は上野が終点です」車掌は憮然とした顔で繰り返し「東京駅はあっちの電車」と山手線の乗り場を指差した。

Mさんと私は半信半疑ながらしぶしぶと下車した。全員が下車したとばかりその時は思っていたのだが、降りたのはどうもわれわれ二人だけのようであった。

それからがたいへん。東京駅で待っている友人たちにどうやって知らせよう。まさか上野で降りたなんて知るよしもないから、きっと心配しているだろうなとあわててしまった。

携帯電話の番号も知らないので、とにかく山手線で東京駅まで行こうと急いだ。東京駅に着くとMさんが私の膝の痛いのをかばい一人で新幹線のホームまで走って行った。しばらくして、誰もいなかったわよと戻ってきた。ええっ!そんなぁー!  何か良い手だては・・そうだ、Kさんの自宅に電話して携帯の番号を聞けばいいのだと電話をかけたところ、妻は携帯を持っていませんと言われてしまった・・・。困ったなあ・・

あっ、佐久の自宅に電話して、もしKさんから電話があったら私の携帯の番号を教えてもらうという方法がと思ったら少しほっとした。案の定Kさんから電話があったと長男の妻が知らせてきた。

そして友人のひとりの携帯番号を教えてくれたので、私の携帯からかけようとしたのだが、ちっともつながらない。私が変なキーを押してしまったらしく、携帯電話が宝の持ち腐れになってしまった。そこでMさんが公衆電話からかけたら、何と彼女らはわれわれのすぐそばに居たのだった。

何かの理由で上野駅で下車し、山手線で来るのかもしれないと、新幹線のホームから山手線のホームへ来てみたとのこと。

Kさんが言った。「ひろこちゃんの携帯30回もかけたって繋がらなかったわよ。いったいどうなってるのよ」

ええっ!そんなぁーと言いながら携帯電話をとりだしたら、何と受信拒否の表示が・・・30回もかけたので怪しいと思ったのかな。携帯電話って何だか苦手・・・説明書良く読もうっと。

何はともあれ会えたのだから良かったと皆で言い合ったが、私はJRの車掌を訴えてやるとぷんぷん。穏やかなMさんもさすがに憤慨していた。まあまあとなだめられたが特に私の腹立ちは容易に治まらなかった。こう怒りっぽいのはもしかしてカルシウムの不足かもしれない。いやいや、私は友人たちに迷惑をかけたことが申し訳ないのである。

   目黒の雅叙園へ

せっかく東京に来たのだからと、幹事のKさんが目黒の雅叙園へ案内してくれた。友達ってありがたいなと感激した。

雅叙園は現代の竜宮城とのキャッチフレーズのとおり、ゴージャスな雰囲気の佇まいであった。

昭和3年の創業当時から、創業者の細川力蔵氏は絵師や彫刻家などのアーチストと交流を深め建物内にたくさんの美術品を配し、その美術品を現、雅叙園に移築したのだそうだ。すべて欅板の百段階段や螺鈿細工、細い木を巧みに組み合わせた組子障子、花鳥を描いた日本画、等身大の人物を極彩色で描いた壁画などが非常に美しい雅叙園。その一部分を垣間見ただけだが堪能した。

玄関を入ると何やら異常な雰囲気の賑やかさだった。それもそのはず華道家の假屋崎省吾氏の作品展が開催されていた。

正面玄関の作品を写真におさめた。誰にも活けられそうで活けられないような奇抜さであった。あの女性的な華道家がずいぶんダイナミックに活けるのだなあと妙に感心した。

ここの食事はおいしいからと、私の苦手なステーキハウスに案内してくれた。目の前でレアだか何だかしらないが、じゅうじゅう焼いてくれるとか・・20分近く待たされて中に通された。

一人3500円だから安いなどと言って友人たちは美味しそうに食べている。私はあんな厚みのある、あんな生焼きの牛肉なんかいやだから、シェフにかりかりに焼いてと言ったら睨まれた・・ような気がした。ほうれん草のソテーは美味しかった。レタスととろろのサラダも美味しかった。デザートはコーヒーとアイスクリーム。

帰る段になったら何と5400円だって。ほらね、あんな厚みの牛肉だもの・・私はさいころ状に切ってもらったステーキをやっとの思いで一切れだけ食べて、後は友人に押しつけて一件落着。

ごちそうさまの後、一人の友人が自分のバッグが無いと言い出した。その辺にあるんじゃないのとあちこち探したらお店の入り口にあってほっとした。

その後、この上着はどなたのですかと支配人さん。見たら何と私のブレザー。やだぁーひろこちゃんたらーとMさん。もう一つありますよと支配人さんが差し出したハンカチを見てMさんたら、あらぁ私のだわー。年はとりたくないねえ・・

んんん???・・・チアノーゼ?

その頃から私の手や指先が青くなってきて、友人たちにひろこちゃんどうしたのその手と言われた。まさかチアノーゼ?と私はぎょっとなった。まだ三浦海岸にも行かないうちに心臓発作かと気持ちまで青くなって・・そういえばさっき歩いていて息切れがしたっけ・・わぁーどうしよう。心臓がこきこきと鳴る。

まてよ、良く見ると何だか色移りのようなほこりのような気配がする。

んんん???・・・ウェットティッシュで拭いてみた。おおおーあれーきれいになるよ。誰だ!心臓発作だなんて・・・

それからが大騒ぎ、安物のカバンが色落ちするんじゃないかとか、それはきっと日本製じゃないんだよとか。そう言われてそうかも知れないと持つ所をハンカチで包んだりして・・それでも手が青くなる。何が何だか訳がわからない。そこでよく調べたら、うーん、やっとわかったよ。新調のテンセルのブレザーが色落ち
するのだ。高かったのに失礼しちゃうよ、まったく!

あのにくらしいJRの車掌がかすむほど腹がたってきた。

まあ、初日から腹を立てるのもどうかとかろうじて腹の虫を押さえたのである。

   ネットの友人との出会い

今回の旅で私には別の楽しみもあった。それはインターネットの友人と会う楽しみだった。順調に時間が過ぎれば2時半には三浦海岸駅で彼女と出会えるはずであった。

ところがあのJRの車掌のせいでもうすでに3時半をまわっている。これでは三浦海岸駅に着くのは4時半になってしまう。

こすもすさん、ごめんなさい。2時間もお待たせして・・・

三浦海岸駅の出札口に向かうと、こすもすさんの姿が見えた。首からデジカメをかっこよくさげて、ステキな帽子にベストを着たチャーミングなこすもすさん。私は十年の知己に会ったような親しみを覚えた。

こすもすさんに友人達を紹介して、さてこんな時間では予定の小松が池までは無理だしと思っていたら、幹事のKさんがホテルでお話をしたらとアドバイス。

こすもすさんもそうしましょうと言ってくれたので、目的のホテル・マホロバ・マインズ三浦まで行くことになった。

ホテルにはすでに別の友人達も集合していたが、私は喫茶室でこすもすさんとおしゃべり。何でも介護の勉強をしているとかでこすもすさんはきらきらと輝いて見えた。喉越しの良いレモンスカッシュを頂きながらの楽しいひとときはまたたく間に過ぎていった。これから横須賀まで帰らなければならないこすもすさんにエレベーターまで送って貰い、温もりの中にまたの再開を約してお別れをした。こすもすさん、素敵な出会いをありがとう。

   たった十二人のクラス会

今回のクラス会は出席者が少なかったが、その分一人ひとりと濃密な時間が持てて楽しい会になった。海の幸を頂きながら、それぞれが近況報告をした。舅、姑のめんどうを看ながら、編み物の講師の資格を取得し、教室を持っている友。夫亡き後ひとりでおせんべいの店を切り盛りしている友。埼玉から茨城まで木工細工の勉強に通っている友。日本語教師の免許を取ろうと頑張っている友。そしてヒマラヤ登山をと夢をめぐらせ、トレッキングに励む友。ピアノ教師をしながら、ボランティアでコーラスの指導をしている友。還暦を過ぎて尚、現役で活躍しているそうした友人達に目を見張り私は強いカルチャーショックを受けた。

そんな友人達が「ひろこちゃんの頑張りには負けるよ」なんて
言うから不思議だ。筋ジスで車椅子で呼吸器装着の息子が二人もいるのは、側でみているとものすごくたいへんそうに見えるのかもしれない。実際、全介助というのは確かにたいへんなことではある。

しかし、自分の子どもがもし身体に何らかの障害があれば、親なら誰でも一生懸命に守ろうとするだろうし、援助の手を差し伸べると私は思うのである。

今夜のお酒はおいしいね、なんて演歌の歌詞みたいなことを言いながら、熱燗を飲んだり冷酒を飲んだりで私も久し振りに少し酔ってしまった。近況報告のあと、今回は欠席だったが、インドで蚕糸の指導をしているSさんを励ましに行って来たというYさんの話を聞いた。日本とちがって何でもゆっくりだとか、貧富の差が激しいとかの他はぼうっと聞いていたのでよく覚えていない。

でもSさんから預かったというサフランのめしべだかおしべだかしらないが、その香辛料を全員がお土産に貰ったことだけは良く覚えている。小さな小さな箱にぎっしり詰まった蕊の赤い色がお料理の味を引き立てるのだそうだ。ずいぶんと高価な香辛料らしいがそんな高価なのを貰ってもお料理の仕方が分からない者ばかりで、Sさんに申し訳ない。インターネットで調べるからねが未だに調べてなくて私も相当な呑気者ではある。

皆でわいわい話しているうちにお開きの時間になってしまった。この続きは部屋に帰って二次会をと宴会場から引き上げた。

明日はミカン狩りにしようか、三浦海岸の散策か、それとも城ケ島まで行って遊覧船に乗ろうかなどと話し合い、結局城ケ島行きに落ち着いた。時間は夜中の一時を過ぎていた。明日の朝は早起きして水平線にのぼる日の出をみようと思いながら、私はいつの間にか眠ってしまったらしい。

翌日の朝、誰かに呼ばれた気がして眼が覚めたら、隣りのベッドに寝ていたKさんが、「ひろこちゃん、いびきかいていたわよ」だって。「ああそうだったの、ごめんね。今までの疲れがどっと出て熟睡していたせいかしら」と私。

半分寝ぼけ眼の私だったが、楽しみの日の出を思い出して窓辺に走った。でも生憎厚い雲に阻まれて陽の影さえも無い。

海も何だか薄暗くそっけない感じでがっかりした。

しばらくしてからそれでもと窓辺に寄ると、雲間からうっすらと光が射し始めていたが、もうかなり上まで昇っていた。

もう一度三浦海岸へいらっしゃいということかなと、納得して窓辺を離れた。

   城ケ島へ

朝食のあと、いよいよ城ケ島観光に出掛けることになった。宿のバスに乗りこんで振り向くとホテルは九階建て(?)の威風堂々。でも海辺の宿はもう少しひなびた風情がいいな。

三浦海岸駅に着くと、Yさんが「あっ、財布をフロントに預けたままだぁ!」と言った。「ええっ、何それ、そこのタクシーで早く取りに行ってきなよ」・・・「やれやれまた珍道中の始まりだぁ」と皆でがやがや言いながら彼が戻るのを待った。

しばらくしてにこにこ顔でYさんが戻ってきた。時間に縛られない旅だから呑気なものだ。さあ、出掛けようと改札口を出たら、後ろで何やら大騒ぎをしている。振り返ると、Aさんの切符が出てこないという。前の人が切符を入れた途端にAさんが入れたので機械の中に落ちてしまったらしい。

駅員さんが飛んできて機械を開けて取り出してくれた。

・・・またまたやれやれである。

そんなこんなのうちに、無事城ケ島にたどり着いた。ここから二十分くらいの予定で観光船に乗ると幹事のKさん。

漸く戻った観光船に乗り込むと既に座席は満員。いったい何時乗り込んだのだろう。まさか各駅停車? そんなバカなぁ・・

あっ、でもそうかもしれない・・・

観光船はガイドの案内つきで少しうるさい感じ。私は城ケ島の旅情に浸りたかったのにと思っていると、突然「城ケ島の雨」をガイドが唄い始めた。それが何とも言えず味のある唄い方で惹かれるものがあった。城ケ島は雨ではなく晴天で潮風が頬に
心地よい。

「カモメの餌づけをしませんか」と乗組員に言われ、物見高い我々は、かっぱえびせんを買い込んでデッキの上に出た。

走行中の船から海の上のカモメに餌をやるのは至難の技。

私は船尾の柱に掴まりながら放ったが、進行方向と逆向きの為船酔いしそうで、カモメが餌を食べるたびに吐きそうになってしまった。それでも頑張ってデジカメで海とカモメの写真を
二、三枚撮った。海をゆっくり楽しむどころか、カモメの騒ぎをしているうちに船着き場に着いてしまった。

   土産店・海鮮丼

下船してからまだお土産を買ってないのに気がついた。

家族がせっかく旅に出してくれたのだから、何か海の匂いのするものをと思っていると何やら良い匂いがする。

良い匂いにつられて近寄った土産店では、鯵の干物を焼いていた。そこのおかみさんは商売上手で、我々にお茶を入れてくれたりお菓子やいかの焼いたものや、塩辛など出して「私の友達が小諸市にいる」などと言うので、何だか身内みたいな気がして、お土産をどっさり買い込んでしまった。

友人たちも競って買ったのでおかみさんは大喜び。「ねえ、美味しいお昼を食べさせてくれるお店教えて」というと手招きして店の表に連れて行き、小声で「あそこのお店」と指さした。食堂が幾つもあるので小声で言わないと差し障りがあるとか・・・

紹介されたお店へ行くと、後から土産店のおかみさんがやってきてうちの大事なお客さんだから、負けてやってね」と言った。感激していたら、先に食べていたお客が「大将、土産店はどこが
いいの?」 大将は「あそこの店だよ」・・・なあんだ持ちつ持たれつかぁ。でも商売上手で感心してしまった。

還暦を過ぎるとずうずうしくなって、友人たちが「海鮮丼の八種類は多いから三種類にして安くしてよ」などと言っている。

私が「そんな無理言ったって」と言うと「これだけの人数で食べるのだから、それくらいのサービスはしてもらわないと」と友人たち。

私はもう下を向いて小さくなっていた。店の大将は「はいはい分かりましたよ。三種類ね」

海鮮丼はマグロの産地だけあってとろけるようなおいしさ。ごちそうさまと代金を払う段になったら何と700円。それじゃあ八種類で800円のほうが良かったと私は密かに思ったが黙っていた。なぜって皆もきっとそう思ったに違いないから・・

旅の恥は掻き捨てというけれど、見栄っぱりな私としては掻き捨てにはできない。「無理言ってすみません」と友人の分までぺこぺこ謝りながら食堂を後にした。

   旅も終りに

楽しい旅も終りに近づいて、帰路の列車に乗り込むと疲れが一気に出てうとうとと眠ってしまった。友人たちの話し声に目覚めたら、幹事のKさんが「東京駅についたら、丸の内ビルに連れてくよ」と言っている。昔は夜になるとひっそりしていた官庁街のビルも、今はお店が入ってとても賑やかとか。

丸の内ビルは窓々に明かりを点し、都会の華やかさそのもの。35階か36階か忘れたけれど、エレベーターで一気に昇って眺めた夜景が忘れられない。

日常の忙しさから解放された二日間は、あっという間に過ぎてしまった。でも気心の知れた友人たちとの旅は、私にとって心身ともに癒された旅であった。

幹事役のkさん、ごくろうさまでした。やさしい心遣いをありがとう。クラスの友人たちありがとう。そして最後に、私の家族に感謝してこの拙い旅行記を閉じることにする。こんなだらだらした文を最後までご覧いただいた皆さまに心からお礼を申し上げます。


   おわり

2003年12月02日(火) 、2004年03月20日(土) 00時00分

ヘルパーさん

我が家には、筋ジスで気管切開を余儀なくされている息子が二人いる。

少し前までは訪問の看護師さんと家族だけで介護をしてきた。

しかし、長男の妻が勤めを持っているうえに、われわれ夫婦の体力もそろそろ限界に近づきつつあり、この際ヘルパーさんの力を借りようということになった。

洗髪と入浴だけは契約済みだったので、身体の清拭と、トイレの介助、それから、夜、車椅子からベッドへの移動の介助をお願いすることにした。ところが、洗髪に来ていただいている社会福祉協議会のヘルパーさんは夜おそくの介助は、人数的に無理とのことであった。

仕方がないので別の事業所をあたったところ、一社は夜十時まで、もう一社は二十四時間営業という。

長男は二歳の娘がいるので九時半には寝たいと言い、次男はパソコンの仕事があるので十一時頃寝たいとのこと。

二人の就寝時間が一時間半もずれているのでは同じ事業所のヘルパーさんを頼むわけにはいかない。そこで長男と次男と別々の事業所のヘルパーさんをお願いすることにした。

そうしたら、何と一週間に三社のヘルパーさんと入浴車と訪問の看護師さんとで、延べ約五十人が出入りするようになって、我が家は大賑わい。

他人がこれだけ出入りすると、さすがの私も人に疲れてしまう感じだ。その上、毎日同じ人が来る訳ではないので余計疲れてしまう。

新しいヘルパーさんに毎日同じことを伝え、介助をお願いしなければならないので、私も嫁もくたくた状態でいっそヘルパーを断わろうかとまで思ってしまった。

しかし、ヘルパーさんはどの人もみな覚えようと一生懸命で、その姿を見ていると感謝の思いでいっぱいになる。

そうこうしているうちに1ヶ月が過ぎた。此の頃はだいぶなれて、あまり注意しなくても上手に出来るようになって安堵した。

最近は気心も知れてきたので、親しみも増し、たまには世間話もしたりする。

特に夜、次男の介助をお願いしている事業所のヘルパーさんは楽しい人ばかりで、契約時間が余るとお掃除などもしてくださる。

長男は翌日が、洗髪の日と入浴の日は母屋の次男と同じ部屋に泊まる。その部屋はけっこう広く、出入りの戸が四枚あり、そのどれもが私が両手を広げても外したりつけたりが難しい。

ある夜、寒くなってきたので外しておいたその戸をつけようと、一人で悪戦苦闘していたところ、次男をベッドに移し終えた二人のヘルパーさんが手伝ってくださった。ところがその四枚の戸のしるしが間違っていたらしく、しっくりいかない。戸には、犬が部屋に入りたくてひっかいた傷痕がありそれを目安にあれやこれやと移動して、どうにか治まったのだが時間はすでに夜中の十二時をまわっていた。

契約時間は三十分なのにと申し訳なさでいっぱいだったが、私は大助かりで何度もお礼を言った。

しばらくたったある夜次男が、この戸何だかちぐはぐで変だよと言い出した。
その夜は、別のヘルパーさんが介助に見えていた。また私ががたがたやっていると、お手伝いしますと二人であれやこれやと移動しはじめた。

そのうちに犬のひっかき傷が柱の傷とぴったりだと言って、若いヘルパーさんが嬉しげに言った。見るとなるほどぴったりだ。

これで間違いないね、と言いながら打ち合わせになっている戸を見ると、陽に焼けた色がぜんぜん違う。ええーっ!うそーっ!やだぁー!

かくしてまたはじめからやり直し。あっ、取ってが無いからこれは向こうの戸だーとか、あれぇっ、犬のひっかき傷が無いっー!とか言っているうちに何が何だかわからなくなって、しまいには可笑しくて可笑しくて皆で夜中に大笑い。

涙が出るほど笑ったあと、どうにか上手につけられたのだが、またも十二時をまわってしまった。ごめんなさい、昼間私がやれば良いのにと謝りながらも私は嬉しかった。

我が家を訪れるヘルパーさんは嫌な顔をする人など一人もいない。それどころか介護する私の簡易ベッドまで広げて、大丈夫ですかと優しい言葉をかけてくださる。

仕事とはいえ、かなりハードな介助なのにきびきびと明るく振る舞うので頼もしい。だんだん老いに向かい心細さを身に沁みて感じはじめた私にとって、こんな有難い助っ人がいるなんて幸せと言う外はない。

明日もまたきまーす。おやすみなさい。

真夜中の十二時過ぎをヘルパーさんはにこにこと帰って行った。

ヘルパーさん、ありがとう。玄関の戸締まりをしながら私はもう一度そうつぶやいた。

2003年10月25日(土) 00時00分

ホームへ| ↑ページのトップへ

MENU

著者

ルナ(土屋浩子)

昭和16年生まれ。長野県佐久市在住。昭和48年3月、「短歌新潮」入会、丸山忠治先生に師事。昭和60年12月、第一歌集「風花」を出版。平成19年6月、第二歌集「水辺の秋」を出版。平成20年11月没。

リンク集

Powered by COZALWEB
Copyright (C) 2009 佐久の風花メモリアル All rights reserved.