佐久の風花・メモリアル

オリジナル短歌&エッセイ&気まぐれ日記

エッセイ(1/8)

モズの速贄(はやにえ)

ある朝のこと、私はとても衝撃的な場面に出会った。それは柿の幼木に小さなカエルが磔にされている、残酷な場面であった。誰がこんな残酷なことをと、一瞬足が止まってしまった。しかし、良く考えてみると、最近裏庭に百舌がやってきてはキチキチと鋭い声で鳴いているので、これはまさしく百舌の速贄に違いないと確信した。

余りに残酷な様子なのでカエルを助けたいと思った。しかし、カエルを助けるとせっかく百舌が苦労して捕まえたその苦労が水の泡になる。こんな時いったいどうしたらよいのかと途方にくれてしまった。

よく蜘蛛の巣に蝶や蜻蛉が身動き出来ずにいるのをみるが、百舌の速贄も百舌が生きる上での知恵なので人間がどうこうするものではないと、自然の摂理に従うことにした。

百舌は肉食のため、生きている餌を捕るのに都合が良いように、くちばしの先端が鋭く曲がっている。餌はバッタ、イナゴなどの昆虫、ミミズ、カエル、ヘビ、トカゲ、そしてモグラやネズミなどの小哺乳類も食べるようだ。
秋から冬にかけて捕った獲物を木の枝や木の刺、有刺鉄線などに串刺しにする百舌の習性には驚かされる。

一般的には百舌が捕った獲物を串刺しにするのは、縄張りを守るということらしいが、その他にも獲物を引き裂いて食べるからだとか別の鳥にお裾分けするためとか諸説があってどれが正しいのか私にはさっぱり解らない。解らないがだんだん調べてみると、百舌はけっこう利口な鳥なのかもしれないと思った。

百の舌と書く百舌は口真似が上手でカァカァとかワンワンとか鳴いたりするらしい。最近は救急車のサイレンの真似もするらしいので、一度ぜひ聞いてみたいものである。

佐久では百舌の速贄は珍しいので証拠写真をと、カメラにおさめた。私が大騒ぎしているのを百舌は見ていたのか、翌日にはカエルは消えていた。百舌が怒って食べてしまったのかもしれない。

さて、百舌はこれ位にして夕食の支度をと冷蔵庫を開けてぎょっとなった。鰯が六匹も藁で目刺しにされて・・・百舌より人間の方がずっと残酷ではないか。

2006年12月10日(日) 00時00分

ヤッター・・!?

今日はペグインターフェロンを注射する日である。

一週間に一度の注射でも十回目ともなると、少し面倒な感じだ。

でもC型肝炎のウイルスが陰性になるまでは、何としてもがんばらなければと、しぶしぶ病院へでかけた。

そういえば、この前の血液検査の折り、主治医のM先生が「来週はウイルスの検査結果が解るのでお楽しみに」とたしか言った気がする。治療開始後、八週間でウイルスが消えれば確実に完治すると何かで読んだような・・・

副作用もあまり無いし、そうかと言って肝機能の数値は基準値内まで下がっているし、インターフェロンと飲み薬は案外私と相性が良いのかもしれない。だから、もしかしたら陰性になっているかもしれないと、そう思ったら足取りが軽くなった。

いつもの血液検査のあと、少しどきどきしながら待合室に順番を待った。名前を呼ばれて診察室に入ったら先生は「調子はどうですか」と聞いた。私はいつものように「まあまあです」と応えた。私が一番気にしていたウイルス検査の結果を訊ねると先生は「ああそうそう」と言いながら「ウイルスは陰性でしたよ。良かったね」そして側にいた看護師さんも「祝杯ですね」とにこにこしている。

私「・・・ヤッター・・!?・・先生、陰性でも注射と薬は48週続けるのですか」
先生「そうですよ。」先生がそのあと、しっかり治さなければ
ねと言ったかどうかは定かではない。
私「ええっーやだなあ、陰性なのに何で・・・」と口の中でぶつぶつ文句を言っていた。
先生「48週が済んだあとも、予防の為に薄い薬を一年くらい打つ人もいるよ、四十代、五十代の人では・・」

それなら陰性になっても嬉しくないよとまたぶつぶつ。

しかし、陰性なら人に移ることもないし、完治が望めるのだからもう少し辛抱である。

でも、陰性になったと言うことはM先生の処方が正しかったからに違いないと先生に感謝した。

一応、ウイルス検査が陰性だったことを家族に告げたら、家族の反応はいまいち。薬の副作用もあまり無く、私がいつも元気にしているので陰性は当然と思ったのか。こんなに我慢して苦労しての結果なのにと少し腹が立った。

夫「何はともあれ祝杯といくか」と言いながらビールをぐいっ!

私は麦茶をぐいっ!

一茶ではないけれど「めでたさも中くらいなりおらが春」の心境だが、先ずは一安心の検査結果であった。

2006年07月21日(金) 00時00分

サニーの死

平成18年6月11日(日)、夜9時45分、ゴールデンレトリーバーのサニーが息を引き取った。お腹に腫瘍ができ、それが急激に悪化したためである。

少しも苦しまず穏やかな最後であった。最後に側にいた私でさえも、気がつかないくらいにひっそりとした死であった。人間もこんなふうに穏やかに死ねたら良いのになとふと思った。

思えば今から12年前、夫の退職を機に犬を飼おうと家族で相談した。

夫は大型犬と一緒にゆったりと散歩が出来たらいいなと言ったが、私は歳をとって散歩が苦労になるようでは困るからと、小型犬のポメラニアンを希望した。

ある日夫が、ドッグセンターに行ってそれで決めようと言い出した。

それならと二人で出掛けたのである。ドッグセンターでポメラニアンの値段を見てびっくり仰天してしまった。何と24万円もするのだ。

ドッグセンターでは、ゴールデンなら店の裏にいるので、見てきてくださいと言うので見に行くと、そこには少し白っぽい雌のゴールデンが上品な顔だちで繋がれていた。

それを見て夫はいっぺんで気に入ってしまった。でも値段はやはり24万円。

聞くと、売る犬はこれから生まれる犬でまだお腹の中にいるとのこと。

6月1日が出産予定日で、生まれてから50日ほど過ぎるとドッグセンターに来ると言うので雌を予約してきた。

楽しみに待っていたら、7月の中旬ごろ連絡がきた。

ドッグセンターには何匹ものゴールデンが居て、どれでも好きな犬を選ぶようにと夫に言ったとかで、一番小柄で上品な顔だちの犬を連れて来たよと言いながら帰って来た。犬の選び方からするとちょっと問題の選び方らしい。

丈夫で躾やすい犬は、少しぺちゃこで、おいでと手招きしたときちょっと間をおいてちょこちょこ来るようなのが良いと何かで読んだ気がする。

夫の選んだのは手招きしたらすぐに、近づいてきてくんくん匂いを嗅いだりして可愛かったからと言う。きっと物見高い性格のうるさい犬かもしれないと内心思ったがなかなかの美形だったので良しとした。

名前は太陽のように、強く明るく温かく育つようにとサニーと名付けた。

サニーは元気いっぱいに育ち、障害を持つ息子たちの靴下を脱がせたり、落ちたものを拾ったり、新聞を運んだりと介助犬の役割もこなした。

言うことを良く聞き分け、従順で静かな、それでいて人懐こい性格のサニーは誰からも好かれ、夫の選び方は確かであったと思うようになった。

そのサニーの死である。存在感が大きかっただけに寂しさはいっそう募った。

獣医師の上原先生に連絡すると、朝一番で行きますと言ってくださった。

サニーの枕元に水やおやつやお花を飾ってお香をたいた。次の日、上原先生がマーガレットの白いお花をたくさん摘んできて、サニーの首もとにそっと置いて良く頑張ったねと話しかけて下さった。思わず涙がこぼれてしまった。

やさしい獣医さんである。

それから、お別れが済んでいるようなら、このまま連れて行き、火葬にしますからとご自分の車で運んでくださった。それから次の日、上原先生に抱かれてサニーが戻ってきた。人間のようなきれいなお骨の箱に治められ、ビーズのネックレスをかけてもらったサニー。

戌年に生まれ戌年に身罷ったサニー。きっと幸せな一生だったに違いないと確信した。

それから幾日が過ぎたある日、上原動物病院からお手紙を頂いた。

そこにはサニーの似顔絵とともに、こんなことが書かれていた。

「少し臆病だけどとてもおとなしかったサニーちゃん。ちょっとたれ目で穏やかなお顔がご家族を和ませてくれていたのではないでしょうか。病気の進行が早くて本当に切なかったですね。残念です。でも最後を飼い主さんの愛情に見守られて最高に幸せだつたのではないでしょうか。心よりお悔やみ申し上げます。」上原動物病院一同

上原動物病院の先生はじめスタッフの皆さま、本当にありがとうございました。
長い間お世話になりました。

2006年06月29日(木) 00時00分

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著者

ルナ(土屋浩子)

昭和16年生まれ。長野県佐久市在住。昭和48年3月、「短歌新潮」入会、丸山忠治先生に師事。昭和60年12月、第一歌集「風花」を出版。平成19年6月、第二歌集「水辺の秋」を出版。平成20年11月没。

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